ちょっとナオ帳

なんだかまた書きたくなりました。それだけです。

小保方晴子さんの『あの日』を読もうかどうしようかためらっています。

じっと息をひそめてほとぼりが冷めるのを待つということは考えなかったのか。

 

研究者としての道は本当に閉ざされてしまったのか。

 

一体、何が起こっていたのか。

 

すでにいくつかのブログでその感想が記され、TVでも紹介されている。

 

「書き出しに掴まれる・・・」女性のお笑いタレントやレポーターが言っていた。

 

あの日に戻れるよ、と神様に言われたら、私はこれまでの人生のどの日を選ぶだろうか

 

この一文は、小保方さん自身のことだけではなく、これを読む一人ひとりが自分自身へ問いかけることになる。うまい。掴まれた。思わず、自分のこととして、問いかけてしまった・・・

 

「卒論」「スプリング・センテンス」「レッツ・ポジティブ」など、LINEで踊る文字はキャッチーだけれども、第3者には深い意味を与えない。メディアに漂うこれらの言葉は、使っていた当人たちの年齢とキャリアと才能まで疑わしく思えてくるほど、軽い。

 

小保方さんはこれまで記者会見では自分の思いをうまく語れなかったのかもしれない。手記を書くという行為で、ようやくその一部を吐きだすことができたのだろう。

 

中身の濃い人生から吐き出された文章は、その作家の個人的な経験や背景を越えて、読み手がうっかり引き受けてしまう力を持つ。忘れていたり、気が付かなかったりする心の奥底に忍び込んでくる危険性がある。読むことで、苦しむこともあるのだ。

 

『あの日』を太宰治芥川龍之介の小説のように感じた方もいる。

 

だとすれば、今は読みたくない。手に取るには、勇気がいる。取り込まれたくない。

 

『あの日』とは、どんな手記なのか。みんな、どのように受け止めたのか。

 

だから、これを読んだ方の感想に興味がある。何が書かれていましたか?

 

 

あの日

あの日