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ちょっとナオ帳

なんだかまた書きたくなりました。それだけです。

「人間の本質とは何か」、なんてね。近頃は議論しなくなってしまいました。

「あなたはどんな人ですか?」と聞かれて、「私は明るい性格の人間です」と答える場合、それは、例えば、友だちや親や先生から「あなたは明るい人だね」と言われたことによる刷り込みだ。他者からの言葉で、人は「自分はこういう人間だ」と認識するらしい。

 

容姿、振る舞い、学歴、家庭環境、性格などは、他者が勝手に判断して価値を持ったり与えたりするもの。だから、私の本質は、他者から指摘されない部分だと思う。

 

あの人は私のことをこう言う。別の人は私のことをこう言う。それ以外の「私」が実は私の本質かもしれない。

 

でも、他人が見ている私だって、それは「私」の一部だと思っている。とともに、「それはワタシのホンシツじゃないから。私のこと、わかってないから。」と思うことで、自分を保っている。私の処世術。だから、実生活の場面では、いろいろなことを言われても、たとえみんなに好かれなくても多少は平気だ。

 

私の「本質」って何?「人間の中身」って何? な~あんて、ちょっと真面目に考えてしまった。

 

ーーーこの記事を読んだから。

 

  外側の飾りこそが人間の本質

 

ここ。ここがね、特に気になったところ。

 

fujiponさんの言う外側の飾りの一つ一つは、その人が、AさんやBさんとは違うCさんだということを認識するための情報だ。外側の飾りは、他人に辛うじて見える部分、判断できる部分で、「Cさんってこんな人」という解釈は、Cさんを認識するそれぞれの他者が、Cさんのどの部分を強く意味づけるかによって違ってくる。

 

だから、対象とするその人間の「本質」は一つにはならない。他者のバイアスが多分にかかった、時には本人も知らない、幾つもの「本質」が存在する。

 

そんなの、私じゃない!!! 耳に聞こえてきた私の「本質」について、よく思い返せば、若い頃は必死で否定してきた。私の「本質」を他者に誤解されているのが辛かったのだ。何とか正しく理解してもらおうと闘うこともあった。

 

でも、多くの他者と接するようになって、一々反応しても仕方がないことだと気づいた。誤解だとしてもいいじゃないと思えるようになった。それも私の「本質」かもしれないから。都合の悪い面や評価が低いことに対する単なる抗議だったんじゃないのかって思えるようになった。

 

実は、自分の本質なんて、何一つわかっちゃいないというのが真実。

 

ただ、他者に認知されることによって自己の存在を確認する人間社会にいる以上、中身は詰めておくことにしている。

 

たとえば、私の信念とか、私の正義とか。

 

そして、もし「あなたはどんな人ですか?」「あなたの中身は?」と聞かれたら、「私は単純には構成されてはいないの。複雑なのよ。悪しからず」と言ってのけたい。

 

形のないものについて、人に直接出会って語り合う機会が全くなくなった。もっと、現実生活の、いうなれば、損か得かのような、より具体を求める傾向になっている。考えを吐き出す手段に書くことは有効かもしれないが、頭に思いめぐらした考えのたとえ一端にしても、書くことでその全てをありのままに伝えることはできない難しさも感じている。

 

昔、よくやっていた同僚との深夜に及ぶ話し合い。喧々囂々の職場も今となっては懐かしい。

 

 

人間とは何か (岩波文庫)

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