ちょっとナオ帳

なんだかまた書きたくなりました。それだけです。

『100日後に死ぬワニ』歴、2日目の感想

3月20日、19時にUPされるから、待ち構えていた。しかし、漫画がない。そうこうしているうちに、「ワニが死んじゃったから、更新もされないということか」と世間が分析をし始めた。

 

小学館で書籍化されることはすでに発表されていた。100日目はないのか、そうなのか、、、と思いつつ、検索していたら、そのうち、最終話は13コマだの、いきものがかりだの、動画だの、映画化だの、よかっただの、がっかりだの、私には処理しきれない情報がわんさかあふれ出て来た。

 

ワニの死因の考察も、これまでの日々から、何日目のなになにに、こんなことがあった、ねずみが、ひよこが、写メが、これまた先日たまたま見かけてブームにちょっとだけ触れようとした私には、そうなのか、、、へぇ、そうなのかと肯くばかりであった。

 

ワニやねずみに感情移入する人も多数、謎解きをする人も多数。作者の実話に触れる人も多数。

 

1日目から99日目まで、完全にストーリーを把握しているわけではない。ときどき、どういう意味?と思うコマもあり、それはすっとばして100日目を迎えた。

 

今日、101日目になって、漫画の中のワニは死んでも、作品は生き残って、ワニがいろいろな形で売れるものになっていくことがわかった。

 

世界一つぶやかれたこのワニの魅力は何だろう。

 

作者と読者はワニが100日後には死ぬことを知っていた。半信半疑の読者も含めて。正確な他者の命の限りを知ってしまうことなど、日常ではあり得ない。毎日カウントダウンしながら興味を持って見続けたのだ。漫画はワニの日常を描きながらも、読者は非日常を体験したということになる。

 

ワニは当然だが、何気ない日常を過ごしている。その日常に共感する。1日目から99日目までの、どの日かは自分の日常に重なるのだ。

 

他に、何だろう、と考えている間に、時代は違うが、口コミ、実話、絵本、ワイドショー、映画化を共通項にすると、随分前に泣ける話として社会現象となったと言われる『一杯のかけそば』のことが頭に浮かんできた。

 

晦日に、一杯のかけそばを分け合う貧しい母子3人とそば屋の主人の心づかいが描かれている。毎年3人は大晦日に訪れ、1杯のかけそばを注文する。14年後、大きくなった子どもらは、それぞれが一杯ずつそばを注文するという話。

 

ブームは昭和の終わりから平成の初め。世間はこの話の何に感動したのだろう。バブル期の金満状況の中で、見失いがちな人情というものに改めて気づかされたのか。ブームは作者にまつわる人情とは乖離したエピソードで終焉したと言われている。

 

ブームは恐ろしい。作品を軸として持ち上げたり、持ち下げたり、話題作りに走っていく。

 

この『100日後に死ぬワニ』の映画を観に行きたいか?ワニグッズは買いたいか?いきものがたりとコラボした動画は何度も見たいか?本は買いたいか?

 

映画、よかったよという口コミが多ければ、行くだろうな。それよりも、このあと、残されたものはどうなるのか、13コマでは語られなかったことは何だったのか、100日後の物語に期待する。