嗤《わら》ってくれ。
『山月記』
・高校2年生の5、6月に『山月記』を習った人も多いはず。高校の国語教師志望の人は教育実習で研究授業をした人もいるかも。
・高校1年生で『羅生門』、2年生で『山月記』『こころ』、3年生で『舞姫』が定番でした。学校によって、年代によって、違いはあるかもしれませんが、どれかは読んだ覚えがあるのでは。
・国語の教科書で読まなければ、手にとることはないかもしれない作品も多いですね。なぜ、これらの小説は、ずっと教科書に載っているのでしょうか。
ーー「嗤《わら》ってくれ。詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を」
『こころ』もそうでしたが、主人公が吐くセリフのそれぞれが心に突き刺さるのです。『山月記』もそうです。簡単に言うと、人間が虎へと変身する物語。すっかり虎になってしまう前に唯一の友人に出会い、人間であったときの己の性《さが》やなぜ虎になってしまうのかを語る場面の連続で、その告白は最後まで緩むことなく、主人公のもう変えられない運命を読み手も引き受けてしまうのです。
・高校生になれば、現実にはきっとあり得ないと思える変身譚ですが、人は幼い頃から変身話が好きで、大人になっても「変身」に関心があります。どちらかと言えば、いいイメージに変わる方に使っていることが多いでしょうか。
・主人公李徴《りちょう》にとって、変身したかったのは、詩人。「博学才穎《さいえい》」で、「科挙」の試験にも若くして受かり、エリートの道をまっしぐら。将来は約束されていたのです。作品にはわずかの行数でこのことが語られます。実は一般的にはここまでが苦労の連続で、実際、男子一生をかけても「科挙」の試験に受からなかった詩人もいたのです。
・李徴が命ぜられたのは、一地方官吏《かんり》。「なぜ、自分がこんなちっぽけな役職に。」という思いでしょうか。李徴にとって、官吏になることなどは簡単で、だからこそあっさりと辞めることができます。たとえ「李徴よ、君は若い。いきなり中央(長安の都)ではなく、若いからこそ地方からキャリアを積んでいくのだよ」と言われたところで、自分より能力が劣っていると見下している先輩や上司の言葉なんて彼には伝わらない。彼には官吏よりも魅力的な夢があったのです。
ー詩家としての名を死後百年に遺すことー
夢があるなんていいじゃないかと思いますが、彼の夢をもう一度読んでください↑↑
なぜ、詩人になりたいのか。
・李徴は詩人になるため人を避け籠ります。でもそう簡単に名は揚がらなかった。初めての挫折。詩の才能はなかったのでしょうか?ついに、彼は彼の名を呼ぶ声に導かれ行方不明となります。
・結局、李徴は虎になってしまうのですが、実は淡々と、あっさりと書かれた第一段落(授業では段落分けしますよね)が伏線のやまで、李徴はもう「虎」になるしか考えられません。(作者の中島敦は中国の『人虎伝』をベースにこの小説を書きましたが)
何度も行ったり来たりしながら、読んでみてください。小説にちりばめられたことばに気をつけると、あとの意味づけができることばを発見できます。
・高校生のころ、李徴に対して、自分はこういう人間だったと気づいた時は、もう元いた世界にはもどれない、過酷な運命を与えられた切なさが残りました。人間としていられるその最後の時に、やっと自分のこれまでの思いをすべて語ることができたあとに、すぐ、すっかり虎になってしまうなんて。
・でも今は、若いころの李徴の気持ちがちょっとわかるのです。