ちょっとナオ帳

なんだかまた書きたくなりました。それだけです。

「『人物本位』入試の怪シサ フーコーらの議論から考える」朝日新聞

2013年(平成25年)11月6日(水)文化面

・今日もこれです。切り口はまず「6世紀に中国で始まった科挙に代表される試験制度は…」

 

科挙--ここまでさかのぼるとは。スルーできなくなりました。大好きな『山月記』の李徴さんは、なんなくクリアした(しかも最難関の「進士」です)、実はとんでもない試験制度。興味のある方は  ↓  で。

科挙―中国の試験地獄 (中公新書 (15))

科挙―中国の試験地獄 (中公新書 (15))

 

 時代によって内容も違ってきますが、男子一生をかける過酷すぎる試験です。受かれば、超エリートです。

 

センター試験を受験する生徒には、「出たとこ勝負」と言っていました。特に、希望する大学のボーダーに直前の模試や予想問題演習で届いていたとしても、たとえA判定であったとしても、裏切るのです。センターの問題は。

 

・国語を例にとると、たかだか80分で、評論・小説・古文・漢文の読解力があるかないかなんて、わかってたまるもんですか(怒)

 

・でも、その年に一回しか受けられない。私立は今なら複数日程で、しかも学部だって似たようなことができるものも多いので(例えば、国際〇〇と外国語、英文学など)、チャンスは何度でも。(昔は私立でも一学部一日程でした。学部も文学部志望なら、希望校、実力相当校、すべり止め校とも文学部でしたーこのような受験生が多かったと思います)

 

新聞記事はさらに関西大学竹内洋先生のコメントを載せています。

学力重視と言われるより、人物本位と言われた方が、何となくみんなが希望を持てる。今回の提言も教育がポピュリズムと結びついた一面があると思う

 

・ほほー。ポピュリズムですか。「人物本位」と言われた方が、大衆は希望が持てるのですかね。

 

・「点数もよくて、人物もよい」、「点数はまあまあだが、人物はよい」、「点数はそこそこだが、人物が今一つ」、「点数はひくく、人物もよくない」ああ、こんがらがってきます。

 

・受験でよく話をしたことです。「自分の力で勝ち取ってくることができる、もしかしたら最後の挑戦かもしれない」

 

・就職は相手の会社が「ほしい」と思う人物が選ばれる…。大学院も試験はありますが、研究内容と教授と合わなければ入れません。マッチングが大切。公平な、合否のよりどころが、誰にも(受かった人も受からなかった人も)わかる形ではなく、その結果にいたる原因が憶測になってしまう。

 

・大学入試は、点数です。特に一般入試の場合ははっきりしてます。合格最低点より低い人は受かりません。これは厳然としたルールです。サッカーや野球もそうです。点数の多い方が勝ち。さらに、受験はいくつか受かれば、選べるのです。

 

・「人物本位」は何の「能力」が基準ですか?改めて「能力」とは何か…考えさせられます。(「学力」だって、定義が難しい)。

 

センター試験が残念なのは、その問題があまりにもゲーム的要素であるということです(あてもの的)。50万人近くの人のデータをさばくためのマークですが、共通一次試験のころの問題は、こんなんじゃなかった。

 

センター試験で失敗して、うちひしがれる様子も数多く見てきました。でも、あんな問題だもの。その点数が決して君たちの「能力」ではないし、人物を見たものでもない。点数のよかった人は、それはそれでよかったのです。両者は天国と地獄のような差があるかのような一瞬を過ごしますが、まだまだこれからがある。

 

・受験生がつい言ってしまう、弱っちいことば:「私、受かりますか」と受ける前から心配してしまうこと。アドバイスは、「あのね、受けてみなければわからないのよね。とりあえず受けてから心配してくれるかな。」でも、経験上なんとなくわかっていることは、受かるか受からないか半分半分の状態まで仕上がっていないと、受かる確率はかなり低いということ。それと、「受験が楽しみ、早く問題を解きたい」と思うようになっていたら、合格する確率はかなり高いということ。

 

・思いきりチャレンジすることが大切。いい受験をしてほしい。そう願う季節がやってきました。去年2年生だった教え子から、今月、いよいよ入試が始まるとメールがきました。

 

・長くなってしまいました。「科挙」「ポピュリズム」「フーコー」の流れが面白かったのですが、最後になぜ「フーコー」なのかは次回に。

 

政治家とリーダーシップ―ポピュリズムを超えて