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ちょっとナオ帳

なんだかまた書きたくなりました。それだけです。

棒なら、猿にだって使えるんです

『棒』

ノーベル文学賞の候補と目された安部公房の短編です。最近は『安部公房とわたし』という本が話題になりました。彼の作品は、超現実的、前衛的、いわゆる「シュール」。高校生にはなかなか手ごわい作品が多いのですが、毎年の夏休みの読書感想文に、『砂の女』を選ぶ人が必ずいました。高校2年の現代文に『棒』が収録されています。 

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

 

 

友達・棒になった男 (新潮文庫)

友達・棒になった男 (新潮文庫)

 

 

・むし暑い、ある六月の日曜日、駅前のデパートの屋上、私は二人の子供の守をしていた。上の子供が「父ちゃん。」と叫んだ声を聞きながら、私は墜落し始めた。気がつくと私は一本のになって、歩道と車道の溝のくぼみに突き刺さった。私に気がついて、学生二人と先生が私を分析し、判断し、処罰の方法を決めることになった。結果ーー裁かないことによって、裁かれるーーは置きざりに。

 

・『山月記』も人が虎に変身、『棒』は人がに変形します。文中で、先生は「…つまりこの男はだったということになる。…すなわち、この棒は、棒であった。」と判断します。デパートから落下する前から「棒」だったことになります。一方、『山月記』で李徴が人であった時の、内面にふさわしい姿が「虎」だったと言います。さて、どちらが人間らしいでしょうか。どちらに恐ろしさを感じますか?

 

・生き物ではなく、何の変哲もない「もの」、例えると「棒」という生前?の男の価値。ほっておかれたら、そのままほっておかれっぱなし。主体のない人間。男が落ちた時、人々が「腹を立てて上をにらんだ」のは子供たち。男はだれからも気づかれない、疎外された存在(存在していたのか?)。現実的な小説ではないからこそリアルかもしれません。夢なら覚めて。